神戸日華実業協会
 
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孫文ゆかりの地フィールドワーク
神戸市/諏訪山公園、兵庫県庁、関帝廟、中華同文学校、大倉山公園   
令和31114日(日                         (一社)神戸日華実業協会 会員  松 下 豊 久

 今年は1911年の辛亥革命から110周年目の年です。中国では1949 101日に中華人民共和国を樹立したため101日を国慶節としていますが、台湾ではこの辛亥革命が勃発した10 10日を国慶節(双十節)としています。本日は、移情閣(孫文記念館)友の会主催の「辛亥革命110周年記念行事−孫文ゆかりの地フィールドワーク」に参加させていただき、神戸日華実業協会からは12名が参加しました。

孫文は広東省の農民の生まれで、12歳に時ハワイで成功した兄を頼ってハワイに移住してその後香港で医学を学び、早くから西欧思想の下で育ちました。従って科挙の試験に合格した従来型エリートである康有為や梁啓超の清朝改革路線を取らずに、海外華僑や海外留学生を組織して、清朝打倒、中華回復の革命運動に身を投じます。そして何回も失敗をしては海外亡命をするという経緯を経て辛亥革命が一応の成功を収め、「三民主義」を提唱して19121月に中華民国を樹立して孫文は臨時大総統に就任します。しかしその後袁世凱は帝政を復活させて国民党を弾圧し、孫文は再び亡命と帰国を繰り返すことになります。そして袁世凱の死後は段祺瑞の北洋軍閥が中国北部を支配し、南部では国民党の分派が各々に革命運動を継続します。孫文は、1895年の初来日から1924年まで計18回日本を訪問して、華僑や中国人留学生の中に革命勢力を広げ、宮崎滔天、内田良平、山田良政・純三郎兄弟、梅屋庄吉等とも親交を結んで物心両面の支援を受けます。孫文の死後は蒋介石が国民党を統一して勢力を拡大します。この間、中国共産党が結成され、日本が中国侵攻を進めて日中戦争に至る歴史が展開することとなるのは御承知の通りです。 

 記念行事には我々のほか孫文記念館友の会会員や一般の方々を含めて50人以上が参加し、最初に浜嵜繁一さんによる「大海阿−故郷」と「ふるさと」の演奏と、孫文記念館の魚住館長、日華実業協会の植村会長、そして中華総商会の鮑会長のご挨拶があり、次いで孫文記念館副館長で兵庫県立大学教授の陳來幸氏による「孫文と神戸」と題する記念講演がありました。記念講演では、大正後期から昭和初期にかけては、日中貿易総額の6割が神戸港に集中しており、華僑の数も大阪・神戸が東京・横浜を凌駕していたこと。そして神戸の華僑は孫文を積極的に応援しており、辛亥革命祝賀の提灯行列は神阪中華会館主催の神戸で行われ、有名な「大アジア主義演説」も神戸で行われたこと。更に福建幇にルーツを持つ台湾商人が神戸に集中しており、当時台湾は日本の植民地であり居住制限がなかったことから台湾商人の活動は活発であったこと等を教えていただきました。

フィールドワークでは、最初に諏訪山公園の「孫文潜居の地」の石碑を見学しました。1913(大正2)年8月に孫文が袁世凱に敗れた後、神戸に逃れ当時そこにあった常盤花壇別荘に一時身を隠したそうです。次いで当時兵庫県立第一神戸高等女学校があった兵庫県庁1号館に行き、その外壁にあるプレートには「孫文の大アジア主義講演会の地」とあり。この講演会で孫文は、「今後日本が、西洋覇道の犬となるか、東洋王道の干城となるかは、日本国民が慎重に考慮すべきこと」という有名な言葉を残しています。

中華同文学校外壁にも孫文来訪記念のプレートがあり、「1913(大正2)年313日 孫中山先生来訪の地(神阪中華会館旧跡)」とあります。関帝廟には孫文に関連する記念物はありませんが、「赤縣扶桑文化交流自漢唐」の銘板があります。赤縣は中国、扶桑は日本のことで、日中文化交流は漢唐の時代から続いているという意味でしょうか。最後に大倉山公園にある孫文生誕100年を記念して建立された孫文先生之像を訪れ、その隣に並んでいる神戸日華実業協会創立100周年記念の「博愛の碑」の前で記念写真を撮りました。

フィールドワーク終了後は、講演をしていただいた陳來幸氏を中心に10名の会員が出席して天安閣の美味しい中国料理と紹興酒を楽しみました。

 
   
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