神戸日華実業協会
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1.新科目「歴史総合」の狙いと問題点      灘中学校・高等学校校 参与  和 田 孫 博
 来年度からの高校教育は、新指導領の下で教科・科目の再編が行われます。今回取り上げる「歴史総合」は、これ
で「日本史A」・「世界史A」として各2単位で行われた歴史の基礎科目を統合した科目ですが、単独で2単位ですので、古代から説き起こすには時間が足りないといううらみがあります。そこで、近代史に絞って18世紀以降に限定することになったようです。
 これまで全く別に扱われていた日本史と世界史を、世界史の中で日本の歴史を考察するという形にしたのは有意義な改定ですが、一方、古代から連綿と続いている文明・文化の変遷について習わないことは憂慮される問題点だと思います。

1)歴史総合の狙い
・近代(18世紀以降)〜現代の世界の動きとその中の日本について考察する・単に歴史的事実を羅列して覚えるの
ではなく、資料や図説などから当時の世相なども考察する 大まかに言えば、上のような流れで近代〜現代の歴史を捉えようとしており、日本の開国から明治維新、脱亜論、日清・日露戦争、大正デモクラシー、第1次世界大戦、日中戦争、太平洋戦争、戦後復興・発展、日米同盟、日韓・日中問題などもこの流れの中で捉えると分かりやすいでしょう。

2)新たな問題点
 しかし、それぞれの民族の文明・文化や宗教観を知るにはそのルーツを学ぶ必要があるはずで、18世紀以降の歴史だけを学ぶのではグローバルな視点で現代の諸問題に対応していくのに不十分ではないでしょうか?

・ヨーロッパ
ギリシャ・ローマ文明/キリスト教と宗教改革
キリスト教とイスラム教の対立/ユダヤ教とユダヤ人の立ち位置
 これらの古代〜中世の文明・文化や宗教に関する理解は、現代世界の諸問題を理解する上で極めて重要です。特に「八百万の神々」(一種のアニミズム)的信仰を是とする日本人には、一神教であるキリスト教やイスラム教やユダヤ教の確執を理解する手がかりは歴史を遡るほかにありません。

・アジアと日本
有史以前から文明・文化の流入(仏教・儒教・漢字表記・稲作・青銅器・鉄器)
 日本人の倫理観も宋時代の朱子学の影響が大です。四書・五経は鎌倉時代に伝来し、鎌倉五山の禅宗を経て藤原惺窩・林羅山などの朱子学者が日本的に捉え直して「武士道」の概念が成立しました。武士道の神髄といわれる「惻隠の情」も元々は「孟子」に出てくる言葉です。

・近代だけに限定すると
日中関係:日清戦争以降が中心 
日韓関係:脱亜論・征韓論・日露戦争・韓国併合
 日本が先に欧米化し強国となった以降のことばかり学習するのでは、ある意味偏った歴史観を身につけることにならないでしょうか?
  
2.神戸から飛躍した鈴木商店〜現代へのメッセージ〜        神戸新聞社論説委員  小林 由佳
     

本日のテーマは鈴木商店です。明治から大正にかけて神戸を拠点に世界に飛躍した総合商社で、その傘下にあった企業は、60社以上ともいわれます。しかし、昭和初期の金融恐慌で破綻してしまいました。今回は、台湾と切っても切れない関係を築いた鈴木商店の足跡を振り返り、現代を生きる私たちへのメッセージを一緒に考えたいと思います。

城山三郎さんの「鼠」、玉岡かおるさんの「お家さん」などの文学作品にもなっている鈴木商店は、1874(明治7)年、鈴木岩治郎により創業されました。大阪の辰巳屋という砂糖問屋の神戸出張所から、のれん分けという形で独立しました。輸入した砂糖を国内に売る卸売店としてスタートしたわけです。

岩治郎の妻が、姫路出身のよねです。皆から「お家さん」と呼ばれ、鈴木商店の社員にとって精神的な支柱でもありました。後に大番頭となる金子直吉が故郷の土佐から船で神戸へ出てきて、鈴木商店に入るのが20歳の時。1886(明治19)年でした。金子は貧しさから小学校にも十分に通っていません。厳しい岩治郎に叱られ、土佐に逃げ帰ったこともありました。

金子の入店からわずか8年後、岩治郎が52歳の若さで急死します。「女に商売は無理」と周囲が廃業を勧める中、よねは金子と柳田富士松という2人の番頭に鈴木商店の経営を任せます。全幅の信頼を置いていたからです。そして、ここから大躍進が始まりました。

さて、鈴木商店にとってのエポックメーキングが1900(明治33)年の台湾進出です。当時の台湾は日本の植民地で、樟脳の原料であるクスノキの世界的産地でした。金子は台湾総督府のナンバー2、民政長官の後藤新平と懇意になり、樟脳ビジネスの利権を手にします。

樟脳は「夢の素材」でした。クスノキをチップにして蒸留器で煮詰めて結晶として取り出します。火薬、医薬品、セルロイドなどの原料になるため、非常に高値で売れました。金子は樟脳で得た莫大な利益をてこに製造業に参入し、製鉄や製粉、製糖など多角化していきます。「欧米列強に追いつき、追い越すには、産業の近代化が不可欠」との思いが、金子を突き動かしていました。

やがて絶頂期を迎えます。1917(大正6)年には、売上高が三井物産を抜いて15億円、現在の価値に換算すると50兆円になりました。15億円は当時の日本のGNPの約10%に当たります。「日本にスズキあり」といわれるまでに成長しました。

ところがその翌年、米騒動で神戸の本店が焼き打ちされてしまいます。シベリア出兵などで米の値段が高騰し、鈴木商店が米を買い占めているとのデマが流れたのが要因です。当時の大阪朝日新聞が悪徳商社と決めつけて攻撃したことも響きました。

その後、鈴木商店は機構改革を行います。鈴木商店を鈴木合名会社に改め、貿易部門を分離して株式会社鈴木商店を合名会社にぶら下げる形にしたのです。メインバンクの台湾銀行が先導しました。鈴木商店は金子の采配で大きくなりましたが、ワンマン経営で借金が膨らんでいたため、大番頭の独走を止める狙いがありました。金子を株式会社の専務、「お家さん」のよねを社長とし、合議制を取り入れましたが、時すでに遅し。1927(昭和2)年の金融恐慌が引き金となり、巨額の負債を抱えて破綻しました。

ところで、鈴木商店は今も登記上には存在しています。よねのひ孫に当たる太陽鉱工の鈴木一誠会長に教えてもらったのがきっかけで、神戸新聞の取材班が登記簿を調べたところ、会社の清算手続きが途中で止まり、いわば放置された格好になっていました。つまり、登記上では会社は生き続けているのです。

当時の関係者は全員亡くなっており、なぜ清算を終えなかったのかは分かりません。金子は鈴木商店の破綻に責任を感じ、死ぬ間際まで再興を目指してさまざまなビジネスを手がけていました。1944(昭和19)年に金子は77歳で亡くなりましたが、関係者はかつての大番頭の意をくんで、あえて鈴木商店を復活可能な状態にしておいたのではないか。取材班はそう推測しています。どこかロマンを感じませんか。

さて、鈴木商店は多くのものを残しました。まず企業群。神戸製鋼所、双日、帝人、ダイセル、日本香料薬品など、今も日本経済をけん引する企業がたくさんあります。次に企業経営における教訓です。独裁的な経営でガバナンスに欠けた、金庫番がいなかった、借入金に頼ってしまったなど、これらは現代にも共通する課題ではないでしょうか。

最も評価したいのは、人材です。鈴木商店は多くの人を育て、輩出しました。鈴木のOBは、実業界にとどまらず政治の世界でも活躍しました。きら星のようなOBが大勢います。一例を挙げれば、帝人社長を務めた大屋晋三は、後に政治家として運輸大臣や商工大臣などを歴任しました。

鈴木商店は、新興企業だったこともあり、これと見込んだ若い社員に大きな仕事をどんどん任せました。しかも、失敗してもチャンスを与えるのが鈴木流。金子自身、若い頃に大失敗をしますが、よねは咎めず、さらに大きな仕事を与えました。金子の下で若者たちが鍛えられ、能力を開花させて社会に羽ばたいていったのです。

現代に目を転じると、私たちは若い世代を育てているか自問するべきだと感じます。国際比較調査を見ると、日本の若者は将来に対して夢や希望を持っている人がとても少ない。悲観的で、閉そく感が強い傾向があります。さらに、経済協力開発機構(OECD)加盟国の中で、日本の教育支出は下から2番目です。国が教育にお金を十分に使っていないのです。

コロナ禍で子どもたちは厳しい状況に追い込まれています。2020年の1年間で、小中高校生の自殺が増えました。危機的な状況にもかかわらず、社会で問題意識が共有されていません。次世代を守っていく、という意識が弱いように感じます。大人が余裕をなくし、子どもにしわ寄せが行っているのではないでしょうか。

「人生100年時代」といわれます。年を取っても元気に活躍できるのは素晴らしいことです。しかし同時に、若い人をどう育て、支援していくかを真剣に考えなければいけません。若い世代が夢を持って生きられる、そんな社会になる必要があります。若い人に大きな仕事や権限を任せ、失敗しても次への挑戦を促すような、金子直吉や鈴木よねのような大人が令和の時代にもっと増えることを期待しています。自分にも何ができるかを考えたいと思います。

 
 
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